私立大学法学部准教授の講義・研究・趣味の日誌
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Author:Shu.com
私立大学准教授30代。
専門は、憲法。
万年筆。革製品。アニメ。


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久々の母校


 8月から夏休みの間中、耐震工事のために一部図書が借りられなくなると知り、急遽母校に赴いた。久々の母校は相変わらず(学部・大学院時代から考えたらえらく変わっているが)。テミスの像ができていたが、前からあったのか、最近できたのか…。結局、母校に行っても、資料集書のために図書館に行って、生協を見て帰るばかりで、その他の変化には気付かない。

 予めOPACで調べておいたので目的のものをすぐに入手。学部の頃にOPACが大幅改良されたので、資料探しは楽な時代しか知らないが、データベースがない時代の資料収集は一仕事だったろう。ただ、漏れがないかの恐怖はもしかしたら昔はあまりなかったのかもしれないなどと思ったりする。あと「とりあえず入手しよう」という情報過多にもなっているような気がする。で、結局、すべてを捌けず、本当に必要なものも落としかねない。

 なんだかんだ借りてカバンが重い。以前はここから乗り換えて帰るのは大変だったが、私鉄・地下鉄・JRの乗り入れのおかげで楽々。東京から一時期離れた身としては感動的なほどである。ただ、乗り入れ情報をすべて把握していないし、すべての便が乗り入れているわけではなく、これまた情報過多で分からないままウロウロしたりする。

 母校はまだ夏休み前なのか(試験期間中か)、学生がたくさんいた。すっかり夏休みに入っているので驚いた。とはいえ、明日は、出校せねばだが。

購入
●石崎学『人権の変遷』(日本評論社、2007)
●麻生多聞『平和主義の倫理性 [憲法9条解釈における倫理的契機の復権]』(日本評論社、2007)
●内野正幸『民主制の欠点 仲良く論争しよう』(日本評論社、2005)
●原田武夫『国家の読み解き方 憲法学という教養』(勁草書房、2007)


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2007⁄07⁄31 21:43 カテゴリー:雑記 comment(0) trackback(0)
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ジュンク堂新宿店


 ジュンク堂新宿店に赴く。1フロア増床とのことで、どこまで充実したのかあまり分からなかったが、なんとなく書籍が増えたような気がする(たぶん気のせい)。オンデマンド本がそれなりに揃っているのは素敵だ。あるかないか分からない古書店を探し回る必要はなくなる(それはそれとして楽しいのはもちろんだが)。ただ、やっぱり、価格が高く手にとっては戻すこと数回。

●ドイツ憲法判例研究会編『ドイツの憲法判例Ⅱ』(信山社、2006)
 『最新憲法判例』の増補改訂版。そろそろ『Ⅲ』が出版されるはずだ。ここまで継続して出版できるのは研究会の力量だろう。ただ、『最新判例』が出版されたとき、「すぐ最新じゃなくなるだろうし、継続するとしたらこの書名でいいのだろうか…」と心配したが、結局、増補と同時に改訂することになったようだ。

●ジョセフ・ラズ(深田三徳編)『権威としての法―法理学論集』(勁草書房、1994)
 最近、なぜか法実証主義を味わいたかったので思わず。ほんとに、思わず。ケルゼンでも、ハートでもなく…と思って買ったのだろう、と自己分析。

●古賀敬太『シュミット・ルネッサンス』(風行社、2007)
 「我々は今なおシュミットを必要としているのだろうか?」―シュミット全体像を概観できそうな予感。あとがきに「私個人としては、シュミット研究はこれで終了し」とのこと。
 政治学専攻の人と話していて、政治思想史の出版が多いように思うのですが…と問うてみたら、「色々な意味での」需要の面から考えて、若い人が思想史だけを研究し続けるのは困難を伴うと思うよ、と答えが返ってきた。確かに、それは分かるような気がする。

 久々に気楽に飲んだ。





2007⁄07⁄28 09:02 カテゴリー:雑記 comment(0) trackback(0)
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 地元で花火大会があった。観客50万人は超えるそうでえらく混むのだろうなぁと思っていたが、それほどでもなかった。会場は河川敷で、堤防や橋の上は立ち止まり禁止になっていて、警察が「止まらないで下さ~い。大変危険で~す」と声を上げていたが、従う人はまれ。メガホン持って呼びかけるようにしていたら、効果は薄かろうに。「駆け込み乗車はおやめ下さい」とアナウンスするのと変わりない。

 最後のラッシュはさすがに綺麗だった。
 打ち上げられて、花が開いて、散りゆく一連の流れを味わえた。
 この数年、理念的夏を経験はしたが、長すぎる夏は味が濃すぎる。
 四季を楽しめることは、やはりありがたい。

 ところで、たこ焼きとお好み焼きは、やっぱり祭りの会場で食べるもので家に持ち帰って食べるものではないと思う。





2007⁄07⁄27 15:36 カテゴリー:雑記 comment(0) trackback(0)
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アニメ鑑賞―エウレカセブン


 地上波放送開始以降、ずーっと観たかったのだが、ダラダラと今まで放置。ここらで一挙に。地上波とアニマックスで、細切れに観てたが(そんなに朝から起きられないし)。
 色んなアニメが背景にみえる(オマージュ?リスペクト?いずれにしてもちゃんと昇華してるように思う。それほどにオリジナリティはしっかりしてる)。時代毎にこういったメッセージを持ったアニメはあって、各世代が各時代に受け取るということなのだろうが、なんだか最近思うに、結局、一定の世代の人々がまとめて享受しているような気がしないでもない。そんなこと、ないのかな。若い世代がどういったアニメを観ているのか、まったく知らない。いずれにしても、私は年齢的なものもあろうが、美麗な画と爽快感を味わえるだけで十分。
 というわけで、画の綺麗さはさすが。LFOがトラパーの波に乗っているシーン(戦闘シーンも含めて)は爽快。重苦しいときに挿入するくつろぎも快適。とあるアニメのような鬱陶しさもLFOにはない。レントンの声優さんは、ちょっと存在感がありすぎるような気がしたが、なんだかんだこの声じゃなきゃ…となっていた。アネモネの声、あのアニメのあの人にそっくりじゃないか?全体的に「クールw」に仕上げたい意気込みを素直に感じた。シーズン毎の区切りの盛り上がりは整理にちょうどよいのだろう。だらーっと50話まで続いていたらきつかろうなぁ。

 いきなり50話は無理なので、つづく!(blog記事ではつづかないけど)





2007⁄07⁄24 23:51 カテゴリー:趣味 comment(0) trackback(0)
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2007/07/23(月)―試験終了


試験終了

 各クラスの出来具合を丁寧に確かめて、後期の授業改善に活かさなければと強く思う。点数が悪ければ授業が悪く、点数が良ければテストの水準が合ってなかったと思う。
 一回の授業で伝えたいことと一回の授業で持って帰れることのバランスを考えれば改善の余地はまだまだあるか。新聞、資料、画像、動画、スライド、休憩時間、質問への答え、テンションの上げ下げ、色々大変だ。
 夏休みに入ってゆっくり考えよう…と思っていたら、いつの間にか9月に…この夏休み特有の時間の早さ、小学生以来の謎(解明されてるけど、克服できないだけですが)。





2007⁄07⁄23 23:58 カテゴリー:大学 comment(4) trackback(0)
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寝過ぎ。


 酒が入っていたこともあるが、寝過ぎた。帰宅後、無印良品の体にフィットするソファ(商品名)に身を預け寝てしまい、コンタクトを外すために一旦起きて、ベッドに移って寝たまま午後。目は腫れていないが、寝過ぎた。

 研究会に参加。報告者の力に驚愕と感動。かくありたいものです。

 学生・院生の頃、授業が苦手で、指導を受ける機会を自ら放棄していたように思う。学部の頃に、履修可能上限単位を取得した人がいて(同業者)、ギリギリの低空飛行で切り抜けた私は驚いた。もちろん自学自習の質・量がなにより重要だろうが、授業から得られるものは計り知れない。すべてが消化不良というか、先生に顔を覚えて欲しいとか、先生の話す裏話が好きで…とか思って色んな授業に出ている人なんかの話も聞いたことがないではないが、そういうのは別にしても、やはり色々な先生からご指導いただいておけば…と後悔。当たり前だが、もう学生にも院生にも戻れない。


 「日本酒は飲めない」と思っていたが、最近飲んでいる。出身地も関係して日本酒が美味しいのは分かっていたが、次の日に残るとか、気分が悪くなるとか、色々思いこんで、避けていた。「どれだけ安酒飲んできたんだ?」とどなたかに突っ込まれたのを思い出す。焼酎もうまい、ワインもうまい、日本酒もうまい、ビールもうまい…これではただの酒飲みではないか。ただ、弱いので、それほど飲めない。





2007⁄07⁄22 14:45 カテゴリー:雑記 comment(0) trackback(0)
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アニメ鑑賞―FREEDOM4


Yahoo!動画で。

展開が速すぎてちょっと物足りないところも。あと、やっぱりデカイ画面で観た方がよい、このアニメはとくに。
・大気圏突入は全然描かれていないが、あれでよいのだろうか。大気圏突入について描いてほしいというのは、私が妙な期待をしているだけなのだろうか。DVDではアポロ計画などについて特典映像で流しているのだから、なおのこと期待したのだが。
・「地球に来ちゃったのだから仕方あるまい…」という前向きな姿勢は、描きたい主人公像なのだろうし、そんな細かい心情を描くのは目指すところでもないだろうが、あれほどまでに、「あっさり、さっぱり」と話が進んでいくとは思わなかった。
・バッファローの大群と並走するシーンはCMのみ。CMで補完?色んな設定がありそうなのに削ってそうな感じ。当たり前のことだろうが残念。
・「地球最高」を台詞として言わさずとも、EDENの不自由さはそれなりにうまく伝わっていたのだから、それこそバッファローとの並走やコンドル?の真似をしているシーン、「地球人」と遊んでいる姿を描くだけで十分のように思われる。どこか空々しいというか、説教臭さが滲み出てしまっているような。
・EDENでの生活、地球でのFREEDOMのちょうどつなぎ目なので、微妙な位置付けなのかもしれないが、つなぎ目だからこそ念入りに描いてくれないともったいないように思う。
・地球は無政府状態?(「地球人の運転手さん」の台詞を踏まえると、無政府ということはなさそうだが)





2007⁄07⁄20 20:46 カテゴリー:趣味 comment(0) trackback(0)
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読書メモ―おことば/試験期間突入


 試験期間に突入。着任初めての試験なので、問題設定、情報提供、試験のためだけの指導などに戸惑いを覚える。基本的にはぐっと負荷をかけて基礎体力があるかを判断することに重点を置いた。

 カロリーメイトのポテト味がいける…というブログというかメッセというか話というか、聞いたので今日食べてみた。ポテトサラダの味がした。んー、もう、買わない。

【島田雅彦編『おことば 戦後皇室語録』(新潮社版・2005)】
 最近のパパ問題、人格否定問題から、戦争責任や、内奏による政治に対する相当の政治介入まで、色々とおことばを。

 昨今、皇室についての議論は、どこか自然保護と似てきた。万世一系も、神格化ももはや意味がなくなったが、生物学的な機種と同じように保護されるべきだという意見には賛成する。(225頁)


 全体から見てどうなんだ?この賛意は。

 (「やはり、強制になるということではないことが望ましい」を受けて)今の日本で、明仁天皇ほど「日本国憲法」を読み込んでいる人はいないのではないか。少なくとも、憲法学者である土井たか子よりは、数段上であることは間違いない。自分の存在を規定する言葉であるゆえ、厳密な読みを加えることはすなわちアイデンティティの確認とイコールとなる。このようなおことばは、常に現憲法についての解釈を確認し更新しつつ、堅持している証である。平和を希求する態度に限らず、天皇の「護憲発言」は信教の自由や言論の自由、納税の義務にも及んでいる。天皇の護憲意識と愛国的改憲論者の意識には大きな隔たりがあることは明らかである。(237頁)


 そもそも米長邦雄氏の発言がどうかと思うが、それは置いておいて。土井たか子氏が憲法学者であった時期は過去として忘れた方がよいと思われる。彼女を評価する際に「元憲法学者であったとは思えない」というのは、やめてあげた方がよいように思う。憲法学者にとって。
 影響力を持っていることを十分承知の上での「おことば」と思うと、そこまで及んでよいものか。前期授業の最後、少し区切りが悪かったので、衆議院の解散に関する7条説と絡めて天皇制を扱ったが、安易な公的行為(象徴行為)を認めるのは、どうだろうか。統治機構の学説は「現状がこうなってるから」というのが多く、現在人権論で従来の研究を再構築する動きが強いように思うが、統治機構論でも(この区別も評判良くないように思うが)同じ流れが起こりそうである。





2007⁄07⁄20 01:38 カテゴリー:研究(会) comment(0) trackback(0)
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読書メモ―反省


鈴木宗男・佐藤優『反省 私たちはなぜ失敗したのか』(アスコム・2007)

佐藤 「権力」というものに対する鈴木さんの認識は、どういうものですか。事件の前と後で鈴木さんの権力観は変わりましたか。変わったとするならば、どこがどのように変わりましたか。…
鈴木 やっぱり権力の側、あるいは権力のそばにいると、どうしても前しか見えないんです。横や後ろが見えなかった。たとえば橋本総理や小渕総理の前では、自分の言うことが政策決定に必然的につながる場面が出てくる。すると、強い責任を感じると同時に、自分の主張をなんとかうまく通さなければいかんと、先のことしか考えなくなってしまう。これは権力の怖さでした。
 権力は魔物というか、やはり人間の一番弱いところですね。何でも自分の思い通りになる……。何というんだろう、病気というか、病的というか。(78-79頁)


 ここでいう権力がどのようなものか…なんていう考察やらは置いておいて、当たり前のことを言っているのは百も承知だけど、身近な例と重なってなんとなく納得してしまった。今の勤務先ではないが、ほんとに小さな組織の単なる事務的な処理権限しかない地位でも、行使の仕方では大いに権力的になるようなところについてしまった人が病的になっていたような思い出がある。もちろん自戒の念も込めての話で、地域の集まりやら学生組織なんかでも同じようなことありそうで。「いいじゃん、権力者なんだから」という人であればまだいいのだが、綺麗事を並べて権力を振り回すようになったら厄介。





2007⁄07⁄17 02:20 カテゴリー:研究(会) comment(0) trackback(0)
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台風一過


…な天気でもまったくなく、どんよりとした曇りの一日。
 当初の予定から大幅に遅れた起床時間のため一時躊躇ったが外出。久々に池袋まで足を伸ばし、ジュンク堂を目指した。

 新宿のジュンク堂がワンフロア増床したとのこと。池袋本店並みの品揃え…となっていたので迷ったが、なんとなく新宿までが遠く感じる今日この頃。
 しかし、「本店並み」ってことは本店には及んでいないということか?後発増床店舗の宣伝文句が「並み」ってことはやっぱり及んでないんだろうか。多いのであれば「凌ぐ」とか「勝る」とかにするだろうし。いずれにしても近々行ってみないことには気が済まない。

 さて、ここのところ丸善@丸の内オアゾばかりだったので、ジュンク堂池袋本店の本の配置に戸惑った。もちろん棚の分類は頭に入っているが、これはどっちだ?的な分野のときの咄嗟の判断ができなかった。だいたいここまで大きいと分野がかぶっているとどちらにも置くけど。

 佐藤優書店も気にはなっていたので見てみた。今更?…そう今更。それほどまでに池袋本店には赴いてなかったのだ、と気付いた。一連の著作で言及してきた本があれもこれも置いてあって、読者なら便利、読者でない人ならなんだこれ?じゃなかろうか。学務や雑事がなく本をじーっと読んでよい環境というのは確かに羨ましくもある…が、取り調べはあるし、自由に本を選べるわけでもないし、暑かろうし寒かろうし、獄中なんて甘い私には無理だけど。
 以前、どなたかがドイツに留学して、修道院の地下に一室借りて同じような生活をしていたと自慢していたのを思い出した。でも、だからどうした…と言われればそれまでのような気がしないでもない。佐藤とは異なり、自由意思で出られるわけだからね、借りてるだけなんだし。

 結局、なんだかんだ3時間強ほど滞在して適度に購入。全部挙げるのもあれなのでピックアップ。

 萱野稔人『権力の読みかた―状況と理論』(青土社・2007)、クリス・ソーンヒル(安・永井・安訳)『現代ドイツの政治思想家―ウェーバーからルーマンまで』(岩波書店・2004)などを購入。…「欲しい本」で挙げたのと全然違うものしか買ってない。そんなものである。
 致命的なのが、古賀敬太『ヴァイマール自由主義の悲劇』が版元品切れになっていたということである。なんで、どうして…。





2007⁄07⁄16 22:35 カテゴリー:雑記 comment(0) trackback(0)
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Sleipnir


IE7もすっかり定番になっているだろうから、タブも当たり前な世の中。以前はDonut、Sleipnirを使っていたが、IEがタブを導入したのでやっぱりIEだよな…なんて移り気。しかし、この1年(?…IE7っていつからだ?)、メッセンジャーなどのアプリからリンクを開くと、いくら設定で「現在のウィンドウの新しいタブで開く」に合わせていても新しいウィンドウが開くし(タブなら二重起動はやめてほしい)、なによりもタブを閉じた後のアクティブタブの動作が気に食わずいらいらしていた。今日、ふと、メッセで話していて「なんか不便だよね」との言葉に反応して、久々にSleipnirに戻した。Ver1.66時代に比べるとファイルはかなり大きくなって、重さは感じるが、なによりもカスタマイズの細かさに改めて脱帽。今までの小さな苛立ちがもったいなかった。新しい物好きはやっぱり失敗する。

Firefoxはどうなんだろう?(出たときにインストールして少しだけ試した様な記憶がある。)研究室のPCにThunderbirdが設定されていたので、Edmaxから乗り換えすっかりThunderbirdユーザーになってしまっていることもあって気にはなるのだが…。メーラーとちぐはぐなのはいいけど、やっぱり見た目の統一感はよさそうだ。…実は見た目を優先するのもやっぱり失敗するのだが。





2007⁄07⁄15 05:28 カテゴリー:PC comment(0) trackback(0)
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読書メモ―民主と愛国


【小熊英二『<民主>と<愛国>―戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社・2002)】

序章を読んでみた。おもしろそ。お勉強させていただきます。

 予備知識のない読者を想定して、社会学などの専門用語はできるだけ使わず、歴史学者にとっては「常識」ともいえる基礎的史実の説明もしばしば行っている。
 とはいえ「予備知識のない読者」といっても、学問の専門分化が激しい現在では、ある分野の専門研究者も他の分野については「素人」である場合が少なくない。…したがって、本書のように幅広い領域をカバーした研究において、専門研究者でなければ読めないようなスタイルでそれぞれの章を記述すれば、ほとんど誰一人として通読できない本ができあがってしまうだろう。
 以上のような考えから、筆者は一般の読者…の読みやすさを優先して本文を記述し、先行研究などへの言及はすべて注で行っている。筆者の考えでは、学術雑誌に掲載する論文はともかく、単行本の出版は数千人から数万人に及ぶ読者のために行われるのであり、数人から数十人である当該分野の研究者のためだけに行われるのではない。(25頁)


 仰るとおり(結果、注だけで120頁にわたっているのだが)。ありがたや。堂々と予備知識のない読者として読ませていただきます。





2007⁄07⁄13 03:36 カテゴリー:研究(会) comment(0) trackback(0)
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読書メモ―獄中記


 研究室滞在時間が短くなったため、研究室にあった本やら論文などをじわじわと自宅に持ち帰っている。前任校ではほとんど研究室にいたので資料はほぼ研究室に置いていて、現任校でもそうなるだろうと勝手に思って資料をすべて研究室に一旦置いたが事情変更。自宅の部屋も狭くていいかと選んだため、すでに置く場所がなくなって困っている。本格的に本棚を買わねばならない。部屋を広げたいところだが。

 ハンナ・アレント(ジェローム・コーン編 中山元訳)『責任と判断』(筑摩書房・2007)購入:なんども本棚に戻したが、どうしても欲しくて購入。領収書もらってない。少し読んだが、面白い。

【佐藤優『獄中記』(岩波書店・2006)】
通勤電車内で読む。もうすぐ読了だが、火曜日まで通勤せず。なんだかんだ読んでしまった。最後の資料は日ソ(ロ)交渉を把握するのにとても便利(2007/07/13)

今回の国策捜査の中で痛感したのは、戦後の日本社会が正しい意味でのエリート作りを怠ってきたことです。
 日本ではエリートというと、何か嫌な響きがありますが、ヨーロッパ、ロシアではごく普通の、価値中立的な言葉です。…国家を含むあらゆる共同体はエリートなしには成り立ちえないということを大前提にして議論を進めます。そうなると、どのようなエリートが形成され(特に政治エリート)、国家を導いていくかということが問題になります。
 現下、日本のエリートは、自らがエリートである、つまり国家、社会に対して特別の責任を負っているという自覚を欠いて、その権力を行使しているところに危険があります。(200頁)


日本の大学でエリートの基盤作りができるところはいくつあるだろうか。自戒の念を込めながら。

「政治は検察によってチェックされるが検察をチェックするメカニズムがない」などという批判は、一見もっともに見えますが、「検察をチェックする機関」を作れば、その「機関をチェックするメカニズムはどうするか」という問題が出てくるので、この議論は堂々巡りです。一般市民による検察のコントロールなどというのは、メディア受けはよいでしょうが、司法権力を大衆に委ねると、現下、日本の場合、世論の動きに合わせて次々と事件が作られ、冤罪のオンパレードにになるでしょう。(240-241頁)


 制度的にそのようなものを用意せずとも、司法制度改革のためか、妙に司法権に「国民の目」を入れたがっているように思われる。検察も同じではないか(実証的にあらず、印象的に)。国策捜査云々を一般化する必要もなかろうが、世論の動きに合わせた捜査・起訴・判決・量刑というのが気に懸かる。

 僕としては、政治的観点から三つの原則を立てて闘っている。(①③は略)
 ②裁判官や検察等、現下の状況では僕よりも強い者に「お願い」をしない。ソ連時代、ロシアの反体制インテリは「強い者にお願いをすると、その人間は内面から崩壊していく」と考えたが、その通りだと思う。


 ロシアの反体制インテリでなくても当てはまりそうだ。自立と自律こそ獲得すべきもの。ずれるのを承知の上でだが、「強い者」にお願いして、ぬるま湯な環境を求め、不要なものまで要求するようになった「弱い者」はやはりダメになっていくように思う。

孫引きになるが…

「物事は早晩公正に照らし出されるのが常であるゆえに、もしこのような試練においてよい良心を持っているならば、あまり躍起になって自己を弁護したり正当化したりしない方が賢明だし、そういうことを一切しないならもっと賢明だということである」(バルト自伝)(249頁)


バルト、か。

淡々と読んで終わりそうな予感。

カットされた学術書の抜粋集が気になるが、概して抜粋集は読んでいても面白くない。獄中記読んだ後なら面白そうだけど。





2007⁄07⁄12 23:57 カテゴリー:研究(会) comment(0) trackback(0)
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アニメ鑑賞―鴉-KARAS-


タツノコプロ40周年記念アニメーション。鴉-KARAS-
GyaOで第2話鑑賞。うーん、面白い。このしょぼいパソコン環境ですら引き込まれた。DVDを購入して大画面で鑑賞希望。第1話を観られなかったのがとても残念。企画原案・監督さとうけいいち氏…と調べてみたが、THEビックオー。なるほど。クオリティ高いなと思って以前アニメイトで数話観ていた。

気になる声優は、藤原啓治さん。ケロロ軍曹のポール森山・ナレーター。エウレカセブン(まだちゃんと観てない!)のホランド。いつの間にか聞いている声というほどに役の幅は広いみたいだ。

アクションシーンは3DCGを多用(そういえば、1年生ゼミで映画のCGについて報告している班があった。アニメの点からばかり質問してしまったっけ)。3DCGをアニメで使うのを極端に嫌がる人もいる。確かに、ここで使わずとも…というのは少なからずある。しかし、鴉ではまったく気にならなかった。むしろ、アクションシーンのスピードと迫力を向上させていて効果的。まして、特撮のタツノコプロである。特撮のさとうけいいち氏である。使って何が悪いと思わせた。

ストーリーは深みはありそうだが、よく分からないままにもなりそう。しかし、東京・新宿を舞台にしつつ、無理にアジアな雰囲気を作らずともいいんじゃないか?

いずれにしても楽しみが増えた。





2007⁄07⁄12 22:37 カテゴリー:趣味 comment(0) trackback(0)
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2007/07/11(水)―天皇制、怒鳴り声


【憲法(統治)】
 先週、前期の区切りがついてしまい、時間が余ってしまったため、天皇制を。脈絡がないわけではなく、「衆議院の解散」での7条説から広げたという形で。国民主権、連続性などについては触れず(時間が足りないため)。
 ついに、授業中に携帯電話で話す学生が出てしまった。日頃からうるさい教員と思われているだろうに、まさか携帯電話で話すとは。さすがに「何をやってるんだ。退室しろ」と命じた。へらへらとしているので怒声もあげた。おそらく、今日の大学ならば「怒らずに叱りましょう」が基本で、私のような反応は悪い例になりそうだ。しかし、「叱る」というのは個別具体的で持続的な関係があって成り立つものではないか…などと自分を正当化したくなる。いずれにしてもこういうことの後は不愉快さが後を引く(怒らなくても同じように不愉快なので変わらない)。


 Jarass/Pieroth, GG Kommentar, 9.Aufl., 2007.がようやく届く。随分前に注文したのが延び延びで、いっそドイツに行って購入した方が早いんじゃないかと思い始めた矢先、「また遅れます。キャンセルもできます」というメールが来たので、「じゃ、キャンセルよろしく」とメールをしたら、「他の方の返品・キャンセルが発生したので今日(昨日)配送しました!」と連絡が入った。…いかにもキャンセルと言い出すまで延ばしていたような感じがして不愉快。そうそうタイミング良くキャンセルが発生するか?複数冊購入してしまう研究者は少なくないだろうが、今のタイミングか?ユーロ高で、そろそろEUから出版されている本の値上げを検討していてそれまで待っていたのか?などと訝しんでしまったが、とはいえ、手元に来ると読めるので忘れる(喉元過ぎれば熱さを忘れる…クレジットカードの支払時期が過ぎると研究費申請を忘れる)。





2007⁄07⁄11 11:32 カテゴリー:大学 comment(7) trackback(0)
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読書メモ―憲法を生きる


奥平康弘『憲法を生きる』(日本評論社・2007)

【知る権利について】

1952年の石井記者事件で取材源秘匿という者が問題になったけれど、あのときも憲法学者の間では非常に関心度は低かったですよ。やはり表現の自由ってのは、表現することの自由なのであって、表現をするために何がどのような事件であるかの情報を集めることは表現の自由の保護の対象ではないと考えられていました。たぶんぼくの解釈によれば、ドイツのワイマールの時代の表現の自由と近いところで理解されていた。ワイマールの時代に「表現」を意味するのに語られていたドイツ語は、Vorstellungで、Vorstellungsfreiheit=すなわち表現の自由っていう時の、Vorstellungってのは事実の報道ではなくて、意見の報道を意味していました。だからあることを主張する、そして多かれ少なかれintellectualな、社会の役に立つという、そのような要素を含めたopinionをVorstellungするものであって、事実の報道みたいなものは、その中に入らないっていう理解がワイマールの時代には真面目に通用していた気配があります。意見、主張の部分を保護することが表現の自由、すなわちVorstellungsfreiheitであると理解するワイマール憲法的解釈が日本国憲法の中でも支配していた。美濃部さんや宮沢さんもそうでした。第一あの人たちは表現の自由について発言なんてほとんどしてないですよ、戦前は。清宮四郎さんだって同じです。で誰がやったかっていうと、佐々木惣一さんあたりが昭和の初めか大正の終わりあたりに警察権との関係で多少はやっているけど、しかしその後問題になってきているような表現の自由の問題意識の萌芽をあらわに示しているということはないわけで、違った世界なんですね。(69-70頁)


Webサイトの広がりから来る「諸刃の刃」的表現の自由観をどう捉えるか。ねつ造問題(自体がねつ造されていたら怖いが)の際に、マスコミ側が自主的に基準を作り得なかったのは大きな問題だが、そのときに「表現の自由の優越的地位」を盾に政府による規制を声高に批判していたのに対して、国民は―「騙されたという被害者意識」を除いても―違和感を覚え、「表現の自由の優越的地位」はますますその評価を下げたように思われる。弱い犬ほどよく吠える。吠えれば吠えるだけ弱さが露呈する。マスコミに対する不信感は根強いが、常に批判的な受働者でいられない国民の弱さは根深い。

「知る権利」というのはぼくの場合、政府情報を前提にして、その情報が民主主義に関わるからとか、権利に関わるとか、相手方は常に政府です。したがって、問題は政府が保有している情報ですから、そのあと出てくる「知る権利」運動、例えば犯罪情報とか、顔写真みたい(な―Shu.com補足)話とは違うわけです。
 首尾一貫して、これが個人の知る権利だといえるためには、国家に向けて、民主主義的な議論に基づき、つまり、当該情報が国家に管理された公共情報であるという形で説明できるような中で、はじめて個人の権利として「知る権利」というものを主張できるのではないかと思います。…最近、何でもかんでも「知る権利」といわれるのはおかしいと思う。誰に向かって請求するかというコンテクストと無関係にアクセス一般なんてことは語りえない。(75-76頁)


 この「知る権利」に対する違和感は、実に的確。憲法研究者は誰もがそう考えていることなのだろうが、社会一般では「知る権利」は相当広く捉えられているように思われる。先の「表現の自由の優越的地位」に関するインフレ化現象と同じで、知る権利も「訳の分からない権利」になってはいないか。心地よい名称がもたらす概念の曖昧さ。

【表現の自由の「優越的地位」】

(『石に泳ぐ魚』事件を踏まえて)柳美里さんとか出版会社の側はもともと自分たちには憲法上の権利が、表現の自由があるというふうに考える。でも、ラズ的にいうと、そうじゃない。この人ないし会社の果たす役割が、社会的な役割を果たしているから、それは社会からみていいことであるというので、この人たちに個人としての表現の自由と似たものを保障するのが表現の自由です。私的な側面、つまり自分が書きたいことと書いて何が悪いのっていう側面だけで、表現の自由の「優越的地位」が語られると、ぼくとしてはどうしても少し抵抗を感じます。(89頁)


 これまでの文献を整理して整合性があるのかどうか確認が必要な気がしないでもないが、いずれにしてもやはり社会的役割を担わされた表現の自由は、だからこそ優越的地位があり、そうでない場面ではその地位がなくなる(減ずる)というのは当然の帰結だが、その社会的役割の判定に困難さがつきまとう。

【「国民の教育権」について】

(国民の教育権説に対して)そこでいう「国民」の中には、親・教師・教師集団・学校設置者その他の人々がすべて含まれていて、それぞれの者がどのような権利・権限を有するのかが、この議論では全く分からない、と批判したのです。
 ぼくは、教育基本法の改正に反対するという立場を市民の立場で考えてみて、教育の活性化・教育の運動を展開すればするほど、かつて日教組が語っていた教育についての考え方の体系が崩れてきたと思います。日教組の考えていた、教師は子どもばかりでなくその親も指導する、という教師像は崩れました。…日教組の運動を支えたかつての教育法学は、良かれ悪しかれ権威主義的だったと思います。「教師は子どもや親の味方だ」という議論は、教師の権利擁護、子どもの権利擁護、親の権利擁護の三者はまったく一致するという、教師と子どもと親の三位一体論であったわけです。
 ぼくの基本的な考え方では、親と子の関係において、子どもの自然的な養育を自分の義務として行っている親と子どもは一体であり、子どもにとって何が一番良いかを判断できるのは、子どもの代理人である親です。…法律学的には、親は子どもと一体となっており、学校制度の中で権力を行使する側面のある学校の教師の行為とは全く違います。事例によっては、親と教師は対決します。…このような考え方は、子どものガーディアンとしての親を位置づけることです。…この考え方は、アメリカ憲法学的な考え方です。
 ところが、戦後日本の有力な憲法学説からは、奥平の議論は、要するに、親が子どもを支配する封建的な考え方の上に成り立った議論であって全然承服できない、と反論されてしまったわけです。
 (ヨーダー事件判決)…でも、親が常に正しいわけではありません。子どもの将来を、単にその子を育てる親の自由の保障の問題として考えればいいわけではありません。子どもの身になって考えなければいけません。教育とは、そういうものだと思います。
 そもそも、学校教育とは、子どもの利益のために、国家(state)がある程度配慮できる、いいかえると、国家は、親代わり的役割を果たすことが出来るということを前提として、発達したわけです。こうして、公教育が出てきたわけです。…子どもの親や子どもの属するコミュニティは、子どもの将来を考える義務があると思います。事の性質によっては、親の意思に反してでも、国家は子どもを保護できると思います。(102-106頁)


 国民の教育権説をそのまま説くだけの憲法§26の解説などはもうないが、実は、このような「子どもの利益に群がる者たち」が「子どもの利益」を盾に主張を通そうとする場面は少なからずあるように思われる。人道主義的な響きのある目的には等しく胡散臭さを感じるのは決して管理者の性格だけからくるものではないように思う。親と子の関係について、最終的な責任主体という意味でも、親がガーディアンであるべきだろうが、それが難しかったときに「親権を停止します」といった強い解決策が難しいとなると、「学校に任せます」という柔らかい解決策が採られることになる。しかし、それこそはまさにガーディアンの放棄であり、ガーディアンとしての親を目指す者と同居した学校教育を「そもそも」で割り切ることは既に出来なくなっていないか心配である(杞憂ならば嬉しいが)。

【憲法§9について】

(「杉本判決」を書いた元裁判官の中平健吉弁護士の話)戦争中、何となしに、それが一番都合がいいよというので、海軍経理学校に行った。ものすごく矛盾は感じたけど、それが人生だと思って行った。でも、この自分の行いが、9条の敵だということが分かり始めたっていうのね。こういうときに一歩踏みとどまらせるのが9条だとね。これこそ9条の効果だと思う。そういうわけで、今でも9条を自分の戒めと思ってますと、おっしゃってました。
 樋口陽一さんも、「自由の前提として9条があった」というけど、ぼくもそう思う。徹底して、徹底して、そう思う。それは、ぼくの個人的な体験であり、それを後代の人たちに伝えることは、なかんずく感得させることはものすごく難しいことだと思うけれど、ぼくはそこから離れることはできない。9条が変えられてしまったら、他のところだって無事ではないと思うのも、この経験があるからでしょう。



【「プラクティスとしての憲法」】

その時その時の政治的な力関係とか、われわれの見識の浅さということもあって、プラクティスの中で勝ち取っていくことにはどうしても限界があると思う。ということは、憲法というのは常に未完である。「終わりのない仕事 Unfinished business」なんだ。憲法が未完だということは、それもう宿命的なものであって、だからインチキだなんて誰もいえない。そして、世代を超えた「終わりのない仕事」を僕たちはここまで進めてきた。後に続く君たちも、君たちのコンテクストの中で生かしてくれ、というふうに展開していくものだ。憲法というのは、それぞれが役者を変え、それぞれの局面を変え、間を変えたり場を変えたりしながら作っていくストーリーだと思う。大切なのは、continuityを持っているから一つのつとーリーなのだということです。そして、そういうことが語れる程度には、日本国憲法も「生ける憲法」として成立してきたのではないかと思うわけです。(214-215頁)




 奥平先生らしい語り口が全体を通して先生らしさを出している。基本的に奥平先生の論文は、これを少し堅くしただけで自分の言葉で書かれているように感じていた。だからこそ、真っ直ぐすぎないかと印象を持ったりしたこともあったが、まさに「憲法を生きる」姿である。
 せっかくインタビューでできあがったのだったら、質問内容や話があっちに行ったりこっちに行ったりする雰囲気を残して欲しかった。「こう聞いているんだろうなぁ」と思いながら読むことはできるが、せっかくの気鋭の憲法学者がインタビュアーになっているのを味わいたかった。





2007⁄07⁄10 04:11 カテゴリー:研究(会) comment(0) trackback(0)
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2007/07/09(月)修正―基礎演習終了、推知報道・パブリックフォーラム


【基礎ゼミ】
 本日で前期終了。後期の授業時間確保も難しいので、今日、後期の報告班・報告担当内容の設定をする。松井茂記・松宮孝明・曽野裕夫『はじめての法律学 HとJの物語』(有斐閣)を用いて広く浅く法学に触れてもらうことを目的とする。毎回、ゼミの時間終了後、次回報告分の準備について20分程度指導し、報告に臨んでもらうようにする。

【憲法】
 実名報道・推知報道と少年法§61。パブリック・フォーラム論。自由権での思考パターンを養ってもらえれば十分と思っているので、あまり詳しくはやらない。むしろ、少年法の精神とその限界、特別予防(一般予防)、「内容」と「場所、時、方法」の区別程度で終了。

佐藤優『獄中記』(岩波書店・2006)より。

ハーバーマスは、社会で人々の合意がうまく達成されるためには、一方が他方人らかの行動を強制しない状況下での対話が唯一の方法であると考えます。しかし、小中学校における教師と生徒、カウンセリング専門医と神経症患者の如く、パーソナリティーの観点から、一方のコミュニケーション能力に問題がある場合には、対等な立場での対話という「ゲームのルール」を一時中断して、「了解」から「説得」への転換を余儀なくされると考えます。おそらく、検察官から見た場合、被疑者というのは、パーソナリティーに問題があるので、「了解」する対象というよりも「説得」する対象なのでしょう。(74-75頁)


 今日の大学教員にとって重要な視点に思う。一方的な判断や思いこみにならないように。





2007⁄07⁄09 15:04 カテゴリー:大学 comment(0) trackback(0)
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欲しい本


2007/06/24 書店にて
●『世界各国史 アメリカ史』(山川出版社)
●『世界各国史 フランス史』(山川出版社)
●奥平康弘『「萬世一系」の研究』(岩波書店)

2007/06/28 もうすぐ出る本より
●今村仁司『社会性の哲学』
●酒井直樹『日本/映像/米国』
●吉川隆久『人物叢書 大正天皇』
●中島岳志『パール判事』

2007/07/07 もうすぐ出る本・朝日新聞書評より
●土方透『法という現象』(ミネルヴァ書房・2007) :もうすぐ出る本より
●古賀敬太『シュミット・ルネッサンス―カール・シュミットの概念的思考に即して』(風行社・2007) →『ヴァイマール自由主義の悲劇』の著者

2007/07/08 朝日新聞書評より
●季武嘉也『選挙違反の歴史―ウラからみた日本の100年』(吉川弘文堂、2007)






2007⁄07⁄08 21:21 カテゴリー:書籍 comment(0) trackback(0)
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読書メモ―国家と神とマルクス


【佐藤優『国家と神とマルクス』(太陽企画出版・2007)】

 一連の著作を読む前に読んでしまっているのは失敗。気にはなりつつ、放置していたというのでやむをえまい。

国家官僚で国益、公益のためと思って真面目に仕事をすると遵法意識が低くなります。…それはどういうことかというと、法律は自分たちが作り出す、または解釈するものだという意識が強いからです。ですから一番の破壊的要素は、国家の内側、官僚にあると思います。
 これは浪花節ではないんですよ。フーコーで言うところの生権力だと思う。要するに殺しながら生かすという、右派であれ、左派であれ、既存の体制の破壊を指向する政治勢力がないと実は国家はまわらないんですよね。だから、非和解的に除去するときれいな社会を作ったつもりでも、必ず前と同じぐらいの反対体制が出てくるんです。それはソ連も、チェコも、イギリスも、イスラエルも一緒ですよ。(162-163頁)


 そういえば、以前市民講座で講演をした後に「なんで有名大学の法学部を卒業しておきながら、官僚が法の支配から遠ざかっていくようなことになるんでしょうか?」と質問されたことがあることを思い出した。

「私は、日の丸、君が代は日本国家のシンボルとして大いに結構と考えます。故に法制化には絶対反対です。なぜなら、法律で決めるものは法律で変えられるからです。日の丸や君が代を法制化するという発想自体が誤っていると考えます。国旗、国家というのは日本の伝統に属するもので、文化なのですから、それを法制化すること自体がカテゴリー違いなのです。こういう議論が国旗、国家法制化に対する一番有効な反対論になると思います。」
 そして、右派・国家主義陣営からも、左派・市民派からも、「お互いの世界観的構えをファジーにして…別個に進んで同時に敵を討てば良かった。政治とは、敵と味方を分けて、自己の立場を相手に押しつけることなので、うまく知恵を働かせれば、国旗、国家の法制化などという日本の国体に反する間抜けたことはしないで済んだと思います。要は政治的議論の詰め方です」。(187-188頁)


 右派から「法制化賛成」が説かれた限りで、ここでの「法制化の問題」に気付いていたかどうかは別にして、「法制化賛成派」(普通に考えれば、「左派賛成派」は少なかろうから、「右派賛成派」となるだろうが)が中心となるわけだから、こう単純にもいくまい。あるいは、法制化反対としても、今日では「それでは憲法に…」と、左派からすると最も不当な結論に結びつきかねないと思われる。別の観点から、このようなまさに括弧付きの「文化・伝統」に属するものがひとたび法制化がなされて、改廃されるおそれはないように思われる。それがまさらに「法制化賛成派」の狙ったところであろう。もちろん、とはいっても「改廃される可能性がある」という点での指摘ではあることは承知の上。
愛国心問題も同様か(ただし、国旗・国家を確定したのと、内容充填可能な愛国心とは異なろうが。さらには、公共領域と私的領域の問題)。

 この後の「大日本帝国憲法こそ押しつけられた憲法」(192頁以下)について、国家主義(あるいは国粋主義、場合によっては、実は単なる右派)が指摘する「押しつけ」は、佐藤氏のいう「外圧」とは質的に異なるものだろう。世界情勢の中で強烈な外圧の下であっても、「自主的に」制定しているとする主張に、反論としては適切であるまい。もちろん、論破のための論拠ではないだろうが。

○奥平康弘『憲法を生きる』(日本評論社・2007)読了
●土方透『法という現象』(ミネルヴァ書房・2007)
●古賀敬太『シュミット・ルネッサンス―カール・シュミットの概念的思考に即して』(風行社・2007) →『ヴァイマール自由主義の悲劇』の著者





2007⁄07⁄07 02:46 カテゴリー:研究(会) comment(0) trackback(0)
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読書メモ―参議院なんかいらない


村上正邦・平野貞夫・筆坂秀世『参議院なんかいらない』(幻冬舎新書・2007)

 題名とは裏腹に(?)、至ってまともに参議院改革を提案していて、統治機構論のレポートにも使えそうなところも(もちろん政策論としてではあるが。しかし、今の憲法学の統治機構論は―という分類はどうかと思うという指摘も多いが―、政策論の提示が多いような気がする。この点については後述)。

【平野貞夫氏の参議院改革の7つの私案(134頁)】

・党首選に参加しない
・内閣総理大臣の指名権を持たない
・大臣には就任しない
・3年ごとの半数の改選はやめ、任期6年を一括して選ぶ
・予算と条約は衆議院の議決とし、決算は参議院が議決権を持つ。会計検査院は参議院の所管下に置く
・参議院は外交、防衛、教育など国の重要案件を中心に審議する
・政府の審議会を廃止して、その役割を参議院が持つ


 今回の参議院選挙をみても、解散制度のない(内閣から対抗的カードを切られることのない)安定した議論を継続するための参議院が3年に一度、それも議員の半数という中途半端な選挙のためにドタバタするのは実に無益である。短期的期間での民意の反映は衆議院に任せればよいというのには賛同。


【憲法改正をした場合の参議院改革(176頁)】

1 会計検査院は参議院の付属機関にする。
2 決算は政府が報告するものではない。国会の意思が最終的なものであるから、決算は議案である。
 もし憲法を改正した場合、決算で違法なものがあれば内閣の責任を明白にする。
3 憲法院として、憲法オンブズマンの設置。
 最高裁にでも対等にものが言えるようなパーフェクトなものにする。
4 日本の民主主義と立憲政治の原理を参議院が担保する。


 改憲派(と一応銘打たせてもらうが)もこれくらいに前向きな議論をしてくれれば…と思った。ただ、もちろん、「理想像としての政治家・参議院」を前提にしての「参議院の権能・権限」だろうから、ここだけ見て、制度導入!と言えないのは当然(三者とも十分にそれは踏まえている)。

【憲法、憲法学者、国民(197-198頁)】

平野 (自民党の若手は―Shu.com注)理屈を羅列するだけで、論理が一切ない。また官僚出身の自民党議員の思考の硬直にも驚きます。憲法調査会でも教科書に書いてあるようなことしか言えない。自分で考えてないんです
 かつて村上さんが憲法調査会の会長だったとき、「条文でなく本質論を言え」と一年ほど言い続けましたが、結局出てこない。技術論しか出てこないんです。憲法調査会に学者も何人も呼びましたが、これまたレベルが低かった
村上 …やはり憲法問題にしても学者の意見ではなく、国民の声を聞くべきです。実際生活している人の声を集約してから学者に聞けばいい。
 共産党が言うように生活に根ざした、生活に生きた憲法それが必要です。特に家族のあり方や農業を守っていくためには憲法をどうしたらいいか。これは環境問題にも繋がっていく。
平野 同感です。別の言い方をすれば憲法とは条文だけではない。 日本をどういう国にするか、何を憲法の柱にするかというコンセンサスは必要です。100%とはいかないまでも6、7割くらいの国民の理念的共通の基盤がないと新しい憲法なんか作れません。


 憲法学者・研究者は耳を閉ざしてはいけないように思う。もちろん、彼らの求める「憲法論」と、これまでの憲法学が検討の対象としてきた「憲法(論)」は少しズレがあるだろうし、彼らが求める議論や結論でなかったからといって能力がないというのではいくらなんでも暴論である。ただ、まさにここで「対象がズレる」という指摘をしてしまうのに苛立ちを覚えていることについては耳を傾ける意味があろう。さらには、上で書いた統治機構論での政策論提示の多さについて、―解釈論だけに閉じこもることが妥当でないことを前提にして―提案すること自体はよしとしても、「憲法とは条文だけではない」という感覚を失っていないかと思うような政策があるような印象を拭えない。政府にお墨付きを与えるような学説というのは、―学問的にそのように結論づけられるのだからというのは分かるにしても―やはりどこかでバランス感覚を失っているように思うのだが。


【教育について(199-200頁)】

筆坂 教育再生会議なんて、四方山話みたいじゃない。教育は国家百年の計ですよ。どんな人材を作るか、どういう子どもを育てていくかという大切なことを三、四回集まって話すだけなんて。教育はそんな簡単なものではない。これまで積み上げてきた歴史もあるし、教育の専門家も日本にはいっぱいいる。…教育は人づくり、国づくりの根幹なんですからもっと地道に、もっと真剣に取り組むべきことです。さらに言えば、教育こそ政争の具にしてはならない。
平野 その通りです。教育、人権、宗教はね。それと教育には借金してでも必要な経費をかけなくてはいけない。明治政府なんて外国から借金してまで義務教育を整備し、各地に中学校、高校、大学を作ったんですから。


 確かに教育改革案は提示されている。欧米諸国から直輸入して、少なくともわが国では新規性がありそうにPRされた提案で「教育を再生したい!」とアピールしようとしているパフォーマンスは分かる。しかし、その教育によって育つ人間像が「美しい国」を担う人間だ…というのでは笑えない。

 ここで挙げたのはつまみ食いで、私の納得のいくところ中心となってしまっている(私が「ん?」と思うところには触れていない)。とはいえ、全体的にみて、良識の府としての参議院の復権、立憲政治の貫徹という姿勢はみえる。その意味では、鼎談者のインパクトの強さや本の題名で手に取る人が限られないかが気になるが(それも狙いだろうが)、賛成反対は別にしても、安倍政権批判に酔ったテレビや新聞に比べれば、ずいぶんと栄養価は高いと思われる。一点、やけにアメリカの議会のあり方を取り上げて日本の国会批判をするのが気になった。





2007⁄07⁄05 01:07 カテゴリー:研究(会) comment(0) trackback(0)
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『岩波講座 憲法』を肴に


政治学の先生とお話を。とても憲法にお詳しく、いつも勉強させてもらってばかりである。

『岩波講座 憲法』ネタがこの先生との最近の挨拶のようになっている。確かにこの講座は、これまでの憲法学の流れから大きな転換を目指しているように思われる。最新刊の第3巻の編者が政治学者である杉田敦氏であるのも意気込みの一つだろう。といいつつ、杉田氏を除けば、編集代表は学会を代表する憲法学者ばかりであるから、編集代表からだけどうのこうのはいえないが。
さて、『講座 憲法「学」』ではなく『憲法』なのである。現代において様々なアプローチから憲法をどう料理するかを目指していて、従来の憲法学の、あるいは、これまでの憲法学の理論をまとめるというところを目指しているようには思われない。そして、この本を開くたびに思うことは、執筆者がパラダイム転換とすらいえるかもしれない転換を求めて書いているように思われる。論文には新規性や独自性がないと意味がないと言われるが―どの論文も(…と言えるほどには読み切れてはいないが―新規性・独自性が強いものが多い。
この新規性・独自性が、科学としての憲法学として高く評価し、学会に貢献することは否定しない。しかし、実際に憲法を運用する政治レベルで利用されることはなかろうかと不安になるようなものもある。国民年金問題や閣僚の失言(なのかは置いておいて)問題などで、現政権を批判するのにマスコミは躍起になり、「改憲は下火?」などと指摘する声もあるが、3年後に実現すればよい憲法改正を今回の参院選で出さずともよかろうし、世論とマスコミがそちらに引っ張られているうちに粛々と改正のための手はずを整えればよいと考えるのは当然だろう(下火と喧伝してわざと目を背かせてないか?などと疑いたくなる)。このようなときに、もちろん「護憲か、改憲か」といった古めかしい二項対立的な構図を念頭に置いている人は少なかろうが、執筆者の意図と違った形で影響を及ぼさないだろうかと、思った。

などと思っていたら、憲法2でなにやら熱い話をしてしまった。





2007⁄07⁄04 12:16 カテゴリー:研究(会) comment(0) trackback(0)
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読書メモ―岩波講座憲法3、私人間効力論、昭和史の教訓


●川岸令和「国民主権とデモクラシー」『岩波講座 憲法3』(岩波書店・2007)
アッカマンの二元主義。通常政治への言及が少ないとなると、理論適用可能性が分からないところがあるのだが。私の理解不足。


●関谷昇「社会契約論と憲法」『岩波講座 憲法3』(岩波書店・2007)
現代理論によって暴露される近代社会契約説の限界:「国家や憲法が成立する以前の実力関係において、特定の政治勢力によってなされた秩序形成が、あたかもすべての個々人の自発的合意によって導かれたかのようにみなすことによって、実力支配が事後的に正統化されてされてしまうのである。」(38頁)「要するに、自己同一性構造への回収を回避し、個々の固有性を具現させるためには、政治権力の作用が垂直的・下降的統治に置換されない、新たな構成原理が問われている」。(40頁)
アナトジウスによる社会統治論(社会契約論)。
・笹川紀勝解説・監訳『オットー・フォン・ギールケ著『ヨハネス・アルトジウス─自然法的国家論の展開並びに法体系学説史研究』(国際基督教大学社会科学研究所、2003.2)
・笹川紀勝「ギールケのアルトジウス研究:『共生と人民主権』から学ぶもの」(敬文堂、2004.10)


●齊藤芳浩「私人間効力論の考察」『阿部照哉喜寿記念 現代社会における国家と法』(成文堂、2007.5.)
保護義務理論に対する批判は従来通り。古典的正義論とのシンメトリー。法実証主義、自然法主義のような大上段からの批判(高橋論文・無効力説からの保護義務批判も)は有益なのか?もちろん、解決しておかなければならないのは分かるが。
古典的正義論とのシンメトリーから:「民法上の『個人の尊厳』という規範を利用」、「基本権そのものを援用するのではなく、憲法典に書き込まれた基本権の背景にある社会的価値を援用する」、「憲法の精神」・「憲法の背景にある価値」という言い回しという提案(310頁)
「結局、私人間の紛争に憲法典に書き込まれた規範をもちだす意義があるとすれば、私人間に直接的効力を有することが規定上明らかな場合を除くと、法実証主義的志向に慣れ親しんだ者を説得するのに有効かもしれないということであり、また、それに尽きるのではないだろうか。」(311頁)


●保阪正康『昭和史の教訓』(朝日新書・2007.2.)
昭和初年代の「因」とその視点:(1)動機が正しければあらゆる行動が許される、(2)天皇神格化による臣民意識の涵養運動、(3)国際的孤立からくる心理的、政治的な閉塞感
(昭和初年代を圧縮した)「2・26事件」
まだ途中。
 //攻殻機動隊S.A.C.2ndGIG絡みで「5・15事件」を…という不純な動機





2007⁄07⁄03 03:03 カテゴリー:研究(会) comment(0) trackback(0)
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2007/07/02(月)―文章の書き方、営利広告


基礎演習
試験・レポートの時期になってきたので、文章の書き方を。民法で、失踪宣告のレポートを課されていたので、提出済みのレポートを使って班で検討。レポート自体の出来具合は、皆、それなりにできている。事例に応じて条文を適用して結論を導くという流れはできている。基礎演習も残すところあと1回。

憲法1
営利広告の自由。経済的自由権か、表現の自由か、学説の対立も。あん摩師等法違反事件最高最大判決。奥田裁判官反対意見の「虚偽・誇大広告排除のための一律禁止は、管理者には都合が良くても、真実・誠実な広告も排除することになり不当」という指摘。表現の自由の重要性から解きほぐせ。

授業後、学生が研究室に。結構長い時間滞在。授業についてとか、大学教員・研究者というお仕事についてとか、勉強の仕方とか、俺の大学時代とか、色々聞き、色々話した。学生が研究室にいるのは少し前までは当たり前のことだったが。しかし、昼食を抜いて授業に挑んで、授業後昼食を食べて…という計画だったため、途中から空腹で頭が回らなくなった。失敗。





2007⁄07⁄02 20:35 カテゴリー:大学 comment(0) trackback(0)
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